ゆとりのゆーとおり。

某ローカルWEBメディアでライターをやっている人間が日常を切り取る(=意識高い)ことを意識低めでやるブログ 。旧タイトルは「ぶーぶーの雑記帳」。ということでしたが、それの跡地になってます。

読まなくて良い記事。

実際問題、お前は何がやりたいのかと言われると至極困る。

人生設計なんかはとうの昔に投げ捨てた。

人生なんて取扱説明書のついていないPG(プラモデル)のようなものだ。

 

 

多分に大事な部品を何個もへし折ったり、なくしたり、してきているのだけどその度に廃材をくっつけたり、粘土で埋めたりしている。

 

今は改造計画の真っ只中にあるのだけれど、改造しなきゃ!という意志だけ動いていて、ひたすらに部品を仕入れているところ。

ジャンクだ。ジャンクなのだ。

 

「これ、こうすればいいんじゃね?」と思ったままに組み込んでいるから整合性がない。

部品取りのためにキットを買ったけど、部品取りどころか、箱すら開けていない。

いわゆる積みプラである。

 

少しずつ、「大人になる」ことのカウントダウンが近付いてきている。

8月のゼクシィを買った。ゼクシィというとのはどうもああ、キラキラしているのだろう。こんな立派な人間でもないし、結婚というものは金がかかりすぎる。そんなに金があるのか?世間の人は。キラキラしているものを見ると絶望を感じる。苦痛だ。ペインだ。

 

キラキラしたものにはしたくないし、ゴテゴテなボロボロで構わない。とうの昔にそんな設計図は捨て去った。きっとこのまま出来上がる作品(僕)はボロボロになった歴戦の量産機だろう。それでいい。それこそが相応しい。

 

キラキラしたものを見ると反吐が出る。

本当にキラキラしているものならいい、キラキラしたふりをしているものが嫌いなのだ。

とりあえずメタリックカラーに仕上げてみました的なものが嫌いなのだ。

 

細部に拘っているのか?

そのディティールで満足したのか?

チャチくないか?それ。

 

本当にキラキラ輝くものは美しいし、人の目を引くし、何より人を寄せ付ける。

美しいふりをすることの、なんと醜いことか。

 

そのメッキのようなものを刃物で切り付けて、下地の脆さを曝け出させてしまいたくなる。

 

何度でもいう。

 

大した下地も拘らず、

輝かしいフリをしている奴が僕は嫌いだ。

 

そんなものでは戦えないでしょうに・・・

 

生きることは戦いなのだと誰かが言っていた。

 

戦うものこそ、葛藤することこそ、辛いことに向き合うことこそ美しい。少なくとも僕はそれを愛でたいと思う。

 

あぁ、7月がもう目の前。