ゆとりのゆーとおり。

某ローカルWEBメディアでライターをやっている人間が日常を切り取る(=意識高い)ことを意識低めでやるブログ 。旧タイトルは「ぶーぶーの雑記帳」。ということでしたが、それの跡地になってます。

「ぎ」を言うな。という冷徹にも聞こえる鹿児島弁に温かさを見据えたい。

いつもよりは少しだけ言葉に対してのモチベーションがあるから書くことにする。

いつもの如く駄文だし、さほどいいことも書いてない。
まして言うならば僕は国語の先生でもないし、方言への見地を持ち合わせていない。

あくまでここに書くのは、「まぁ、こうだったらいいよね」くらいの妄想与太話なので、マジレスしてくるような方々には「ぎをいうな」と言い返させてもらう。

 (もうこの時点でタイトルに対してのアンチテーゼ感はある。)

 

 

ぎをいうなというパワハラワード。

よく鹿児島の人間が使う言葉のひとつに

「ぎをいうな」というものがある。

 

これがどういう意味で

どういう使われ方をしているかといえば

 

部下 「いやーこの件はリソースが足りてなくてクライアントさんにアポとってリスケしてから〜(ry」

 

薩摩上司「ぎをいうな、やらんか。」

 

みたいな感じである。

ざっと言えば「御託はいいから」とか、「屁理屈はいいから」みたいなニュアンスで使われる言葉で鹿児島のパワハラワード界でも上位にいるような言葉である。

 

そもそもこの「ぎをいうな」の「ぎ」とは何なのだろうか。

ざっくりネットを見てみると、漢字を当てると「議」とか「義」とかが充てられるらしい。

 

www.kagoshimamonogatari.com

 

実践!会話でまなぶ?鹿児島弁:議を言な(ぎをゆな)←鹿児島弁です - よかど!鹿児島弁

 

まぁ上のリンクにもあるように、

「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっとべ」の表現やら

示現流剣術」の理念にも表れるように、後顧の憂いのようなものは捨てて、理より行動を重視する鹿児島らしい言葉とも言えそうだ。

タブンネ

 

「ぎをいうな」にクソほど萎える。


まぁ「鹿児島らしい」と言えば「鹿児島らしい」のだ。
いい意味でも悪い意味でも。

実際のところ上司に「ぎをいうな」と言われたら、
もう部下としては「Sir!YES!Sir!」だ。

それ以外の言葉は大抵、不要だ。

もう何も語ることはないのだ。

 

つまり、「ぎをいうな」という言葉。
基本的に、これを言われることは、僕ら薩摩の人間にとっては「強制従属」のようなニュアンスもあって、特に若い世代からすればクソほど萎えるパターンが多い。

 

「で、でた~!!!! 風通しの悪い世界wwwwww」みたいな。 

しかし、言葉というのはそうそう表面的に受け取るべきものではないからこそ、この「ぎをいうな」という言葉が余りに「負」のイメージで覆われていることに、少し疑念を抱いているのだ。

 

言葉が使われるシチュエーションが「負」なだけ。

 

まぁ、よくよく考えてみたら薩摩人の気質が論より行動であるとしても。
もっと前提には、郷中教育のような年長者の「面倒見」のように、
厳しさはもちろんのこと、温かさや優しさ的な部分もあるんじゃないのかな?
とすら思えてくる。

・・・というかそう思いたい。 


何が言いたいのかというと、これ。

どちらかといえば言葉そのものに「負」がついて回っているのではなく、

言葉が使われるシチュエーションそのものが「負」なだけで、

言葉自体には罪がないんじゃないか?ということだ。

 

元々の意味や使われ方ではなくて、

今で言うパワハラ弾圧のときに利用した層が、歴史上のどっかにいて、そいつらがあんまりに「ぎをいうな」を悪用したもんだから、「負」のイメージがっぷりついてしまったんじゃないのかな?っていう考え方だ。

 

(もちろん時代の変化に伴って言葉の意味や使われ方って変わってくるからね。)

 

そう、今僕はまさに「用語」の「擁護」をしている。

(・・・とでもいえば西尾維新みがあるだろうか?)

 

「疑」を言うな。だったとすれば?

 

そういう定義のもとで、仮にだ。
そう仮に、の話。仮定の話。

件の「ぎをいうな」 が

「疑」を言うな。

 

という可能性はないだろうか、

どちらかといえば、御託とかそんな悪いワードではなくて、「わからない」とか「不安」とか「疑念」とかそういう意味で「疑」という仮定条件だ。

 

部下「これ、このまま進めて良いんスかね?自信ないし、数字も悪いし(ry」

薩摩上司「ぎをいうな、やらんか。」

 

なんかこう、「大丈夫じゃ、安心せい」感がないだろうか。

機動戦士ガンダムのセイラさんで言うところの

「あなたなら出来るわ」だ。

 

天元突破グレンラガンのカミナで言うところの
「自分を信じるな! 俺を信じろ! お前を信じる俺を信じろ!!」
・・・はちょっと違うか。
 

どうあれ、こんな叱咤激励をくれる上司、めっちゃかっこいい。

というか僕の抱いている薩摩の偉人(だいぶ上方修正効いてる)が言ってそう。

カッコよすぎる。

 どーんと。大船に乗った気分でいられる。

 

ああ、あとは「偽」も「ギ」と読むけど、
これは「負けるな、嘘を言うな、弱い者をいじめるな」という
郷中教育の基礎とも合致する。

「己」に負けるな。という意味もあるしね、これ。

 

 武士に口舌は要らぬ、あるのはただ行動あるのみ。

どうでもいいが、僕は最近、「花の慶次」にご執心だ。
まぁ男が憧れる「漢」感あるし、なんか読んでてエネルギーをもらえるからだ。
ちなみにちょっと前は、「島本和彦」氏の漫画を読んでいた。
これもまたエネルギーをもらえるからだ。

さておいて、花の慶次でこういうセリフが出て来る。

武士に口舌は要らぬ、あるのはただ行動あるのみ。

 

もう、超かっこいい。
というか、まぁこれも若干「薩摩イズム」と似たものを感じる。

「四の五の言う前にやれ」である。 


なんでこんな話をするかというと
さっき引き合いに出した機動戦士ガンダムの話とも重なってくる。

 

アムロ・レイセイラ・マスの「あなたなら出来るわ」の後にどういったか。そう「おだてないでください」だ。

 

かわいくねぇえええええ!!! 

 

信頼を寄せられているんだから、「はい、わかりました」でいいだろ!!となる。
というか鹿児島県民のおおよそ大半は「ウジウジしている奴」を嫌う。

ここで何が言いたいかというと、この「ぎをいうな」という言葉を
幼少期から刷り込むようにして薩摩の人間が「武士≒薩摩イズム」を育てようとしていたというイメージなのだ。


というより、

御託を並べてウジウジして、
「やらない言い訳」をする奴を誰が好き好むというのか。

とでも言おうか。

 

なんかもう、だいぶ僕の中で答えが見えてきた。

 

「ぎを言うな」は激励であり、教育指針。

上の仮定条件を突き詰めていけば、そして僕が今まで言われてきて「クッソが!!」とならなかった「ぎをいうな」を組み合わせてみると、一つの答えが出てきた。


それは

「ぎをいうな」という言葉が、ある種では激励であり、

「薩摩イズム≒薩摩が好む人間性」の教育指針的なワードの可能性だ。

紐解いて、懇切丁寧に説明していくのではなく、
ぶっきらぼうにキツめのワードでドン!といくのも
なんとも、不器用な感じで薩摩の「漢」感があるじゃない。

 

だからまぁ、ぶっちゃけた話でいけば
「儀」なのか「義」なのか「議」なのか「偽」なのか、

はたまた「擬」なのかということはどうでもいい。

そもそも僕は語学とか史学とか詳しくないし、そういうのは専門家の大先生が調べて語ってくれればそれでいい。

 

ただ単純に「ぎをいうな」というワードに染み付いた「負」のイメージに対するモヤモヤを自分の中で解消したいだけだ。

 

そもそも今の時代に
この「ぎをいうな」が、少し受容され難いというようなこともあるんだろう。
風が吹けば桶屋が儲かるではないが、
「部下が嫌な思いをすればパワハラだ~と叫ぶ」時代だ。
 
しかし、時代とともに価値観は変わるものだし、
「言葉」も元の意味からかけ離れていくもので、時代に即していくものだ。

とりあえず僕より100倍以上には頭がいい人のコラムも置いておく。

imidas.jp

 

だからまぁ、アカデミックな言葉の成り立ちとかは置いといて。

 

薩摩イズムの押し付けを若い世代にするのもおかしなことになりそうだから、

あくまでも、あくまでもだ。

 

こう今までみたいなパワハラ風な言葉でなく、

不安や心配で前に進めないような、

自信不足なだけの人達への安心材料として、

それから「頑張らない言い訳」をする人への、

叱咤激励の意味を込めて。

とても前向きにポジティブに

「ぎをいうな」を使っていきたいなぁと思った。

 

というか僕の尊敬している大人はそうしてくれているし、僕もそうありたい。
 

ああ、いやでもな。
冒頭でも言ったことではあるが、

語学詳しいマンが

「その使い方はwwwww違いますなwwwwwwソースは明治〇〇年著の(ry」

みたいなことを言ってきた時には容赦なく使うことにする。

 

だって、ここで僕がその人に懇切丁寧に説明しても逆に先んじて
「ぎをいうな、本に書いちょっが!!」とか言われそうだし。


だから、まぁ、そしたら言うのよ。

「おはんこそ、ぎをいうなちよ、おいの勝手じゃ」って。

 

いつか、目上に言われて嬉しい激励句になればいいよね。

「ぎをいうな」。