ゆとりのゆーとおり。

某ローカルWEBメディアでライターをやっている人間が日常を切り取る(=意識高い)ことを意識低めでやるブログ 。旧タイトルは「ぶーぶーの雑記帳」。

【小咄】師匠シリーズが僕は好きだ。

師匠シリーズという2chのオカルト板から派生したシリーズものがある。作者はウニさんという方で、まぁ創作といえば創作なのかもしれない。無論に彼の学生生活の事もどこかで散りばめられているから、きっとフィクションじゃない部分もあるのだろう。

敢えて言う。僕はあのシリーズが好きだ。

 

 

創作乙とか言われようとも僕はあの文が好きだし、僕と俺を組み合わせた文体を含めて、あの文書が好きだ。

まぁそんなことはどうでもいい。あくまでも前置きが長いのが僕の悪い癖なのだ。いつもの通り流し読んでやって欲しい。

 

今、僕には師と仰ぐ人がいる。いや、師という表現は少し言い過ぎかもしれない。しっくり来る表現で表すならば、そう鹿児島独自の表現で言うところの「兄サァ」だ。歴史の教科書の片隅に載っていたかもしれないが鹿児島には郷中教育という文化があった。つまり「兄サァ」は身近な師であり、頼れる兄貴分であり、人生における先達だ。別に血の繋がりとかではない、緩い義兄弟のようなものだと思ってほしい。

 

 

さて、こういう話をなんで急にするかと言うと、僕にとっての「兄サァ」という存在の在り方が冒頭の書き出しで触れた「師匠シリーズ」の「師匠」に重ねてしまうような部分があるからだ。「ある」と書いたが、断定できるだけの材料はさしてない。そんな気がする、その程度のものだ。戯言をまた言っている、くらいのニュアンスで捉えていただいても問題ない。

 

「師匠シリーズ」は未完であり、時系列もバラバラに紡がれたものだ。ゆえに「恐らく、こうであろう」とか「恐らく、ここがこう繋がってくるのであろう」という推測の域を出ない部分が数多く存在する。しかしながら、一つだけ、全てに共通する物語のテーマ性のようなものは暗に示されている。

 

それは実にシンプルなことであって、『「師」は去るものだ」ということだ。もちろん、これは僕の抱いた推測の域の話だ。名言されてる訳でもないし、コアなファンの指摘に当てられようものならば、こんなことは簡単に崩壊させられるような脆い考察だ。

 

何時からだろうか。いや、恐らくは最初からだろう。そう、僕の「兄サァ」のイメージは『師匠シリーズに出てくる「師」に近似している。ゆえに頼りにもなるし、親近感も持てるし、慕いたくなる。そのネット世界に紡がれた物語の師弟の関係性と似ているのだ。盲信していると、人は見るかもしれない。

 

僕は「兄サァ」が「師」として去ることが今恐ろしく怖い。彼のやっていることは命を削るように動き回るように見えてしまう。それくらいには、 多忙な方なのだ。

 

まぁ、今後がどうなるかだなんてことは僕にも分からないことだし多分に考えるだけ無駄なことなのだから今は今でやることをやるし、それが一番楽しいことだろうから、そうする他ないし、考えるだけ無駄だ。

 

先のことなんて誰にも分からないこと。

 

一寸先は闇。

 

 師匠シリーズにおける名言の一つにこんなものがある。

 

「こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。それがこの世で最も深い闇だ」

 

僕の拡大解釈で行くなれば。目をつぶると、人は身動きがとれなくなる。つまりそれは、歩みを止めることこそが最も怖く、深い闇なのだ。考えるだけ無駄なこと、僕はひたすらに「書く」しかないのだ。それがとてつもなく今は楽しい。