【冷咄】夏のゾッとした話。
そう、あれは・・・僕がこの街に引っ越してきた最初の年のことだ。
夏の夜のこと。そう、あれは確か猛威を振るう台風が接近しているとニュース・新聞が慌ただしく世間を急き立てる夜だった。次第に強くなる風、そして降り始める雨。少し職場に居残ってしまったせいで、だいぶ外は暗くなっていた。そのまま車で走ること数分、家に着くと僕はベランダへ向かった。
良かった。幸いにもまだ植木鉢も物干し竿も倒れていなかった。てきぱきと片付けを済ませ、養生をし、窓を閉める。僕の住んでいたマンションには雨戸がない。窓に大きくバツ印をするようにテープを貼って、かりそめの台風対策をした。ふと外を見やると、だいぶ雨風が強くなってきていた。時折、おそらく隙間風であろうか「ヒュオオオオオオ」という気味の悪い音が部屋にまで響いてくる。あまりいい気はしない。外の方では、おそらくビニール袋であろうか、何かが飛んで行く姿も見えた。
忙しなく走る車のヘッドライトが霧状になった雨の中をぼんやりと光り、そして消えていく。そんな光景をぼんやりと見ていたその時だった。
ふと視界の端に「何か」が映った。
何か変な「影のようなモノ」が向かいのビルの上で蠢いていた。
あれは何なのだろう。
人?いや、こんな暴風雨の中、あんなところに人がいるわけもない。
きっと風に煽られた衣服か何かがビルの屋上の柵にでも引っかかっているだけだろう。いや、そうに違いない。そうじゃないとしたら・・・あれは何なのだ。
言い様のない不気味なものを感じた。
「何も見ていない」
そう言い聞かせて、カーテンを締めた。
そして鍵を確りと閉め、少し遅めの夕食を取り、
その日は少しだけ早く寝た。
おそらく2時頃だったと思う。
不穏な気配を感じて目が覚めた。
いや、「目」だけが覚めた。身体が動かない。
所謂、「金縛り」というものだ。
明かりを消した部屋のどこかから。
何かに見られている気配を感じる。
「ヒュオオオオオオ・・・」
外は恐らく、さっきより雨風が強くなったのであろう。
相も変わらずに不気味な音が鳴り響いている。
時間にしては数分程度であろうが、時の流れがとても遅く感じた。
少しずつ身体の自由が効き始めた頃。
凄まじい轟音が部屋中に響き渡った。
と同時に、「何か」が部屋の中を駆け回り、
そして部屋の引き戸を無理矢理に押し倒すように僕へと迫ってきた。
外れたドアが目の前へと倒れ込んでくる。
身体の自由はまだ完全には効いていない。
倒れてきたドアを持ち上げることも敵わない。
不味い、何か分からないけれど非常に不味い。
しかし、その「何か」は僕を襲うことはなく、
僕を押しつぶすように倒れた扉の上を掠めて、
窓ガラスを叩き割って出ていった。
重いガラス戸だ。下手をすれば頭からガラスの雨を被っていただろう。
やもすれば死んでいたかもしれない。
金縛りに会ったことが返って、功を奏したようだ。
ガラス戸を持ち上げ、身体を起こす。
部屋中めちゃくちゃになっていた。
割れたガラス片が床いっぱいに散らばっている。
一切の家財道具がなぎ倒されている、非日常的な光景だった。
外の台風の強い風と雨が吹き抜けている。
このままでは夜はとてもじゃないが越せない。
粗方の貴重品を持って僕は避難所へと向かった。
避難所へと向かう車内で、
ふと、僕は先程の「ビルの上にいた何か」を思い出した。
ちょうど、その場所からもビルは見える。
煙草を咥え、火をつける。
ライターを持つ手が震える。
きっとショックが残っていたのだろう。
ビュオオオオオオ・・・ゴオオオオ・・・
相も変わらず、鳴り響く轟音に気味の悪さが拭えない。
ふと、ビルの上を見る。
「何か」はまだそこにいた。
そして先程よりもくっきりと見える「それ」を僕は直視できなかった。
見てはいけないものだ。あれは恐らく。
夏が来ると、毎年思い出す。
雨が降ると、毎日思い出す。
台風が来ると、やはり怖い。
ハッキリとは見えなかったけれど、
「アレ」は明らかに
人よりも長い手を振り回して、
不気味なほど大きな赤い口を開いて。
狂ったように、踊るように。
嗤っていたんだ。