ぶーぶーの雑記帳

日常を切り取る(=意識高い)ことを意識低めでやるブログ 。

【退職】見送られる予定が見送ることになったハナシ。【先輩】

書き出しはない。

ひたすらに殴り書いていく。

 

そう、今日5月31日は私の先輩であり同僚であり、上司でもあった「彼」の最終出勤日であった。当初は僕が3月31日に退職し、彼に見送られる予定(その後、5月に退職)だったのだが諸事情により僕が残る運びとなった。

理由については割愛する。そんなことより書くべきことがあるからだ。

 

始まりは雨、終わりも雨

その「彼」は私より3ヶ月早く入社した。私より年は上でスラリとした好青年。めちゃくちゃ几帳面でお調子者の、どこか憎めないタイプの人間だろう。

そんな「彼」は空前絶後のアメオトコだった。

雨に愛され、嵐を愛する男だった。本市はイベントが多い、それゆえ外仕事も多く、彼と仕事をするときはよく雨に悩まされていた。

少し、思い出話をしよう。

 

私が着任して間もないころ、彼は「海に行こう」と行った。

なんということはなく、ただの付き添いで特に僕を誘う必要性はなかったのだが、せっかくだからという理由だった。

海につき、「ここはこういうところだ」と諸々の説明を済ませると、次第に雲行きが怪しくなってきた。そして、彼が「せっかくカメラあるんだし、俺を撮ってくれ」と言い、良いアングルになりそうな堤防まで行った矢先のことだった。

 

突然のスコールが降った。

 

カメラも身体もびしょ濡れになった。

その時は「海は天気が変わりやすい、うんきっとそうだ」くらいにしか思っていなかったのだが、時が経つに連れ、次第に次第にそういう「雨」のエピソードが増えてきた。

 

イベントに行った矢先に「雨」、営業に出るかと話した瞬間に「雨」。

「今日は俺はやる気に満ち溢れている」と言うと激しい雷雨

彼が休みのときにでさえ、電話がかかってきた瞬間に「雨」ということもあった。

次第に彼は「雨男」として知られることになった。

 

そして今日、最終日。

やる気を出していたのであろう、朝から空は黒かった。

彼の今日の業務は9割が「挨拶周り」だった。もちろん、土砂降りではなかったにせよ、やはり雨が降った。そして彼が挨拶周りを終える頃、空は綺麗に晴れていた。

 

やはり、噂は浸透しているようで行く先々でも「やっぱり雨だ!」と言われたらしい。もはや、神がかり的な何かを持っているのだろう。

という訳で、僕にとって「最初から最後」まで彼のイメージには「雨」が付き纏って来るのだ。

 

いつの間にか「呼び名」が変わっていたハナシ。

会社に入ると通常は「◯◯さん」とか「◯◯+役職」が一般的な呼び名だ。

しかし、彼と私は「バディ(彼がそう評していた)」として組んでいたこともあり「お前」と呼ばれることが一般的だった。そんな中でもたまに呼ぶときには「◯◯くん」と呼ばれていた。もちろんに外に行くときなんかには社会マナー通り「ウチの◯◯が~」というパターンもあった。1年くらい、いや2年目くらいだったろうか「◯◯氏」になっていた。まぁ別に良いのだけれども。

そして、この間(ここ3ヶ月くらい前)から、下の名前で呼ばれるようになっていた。

よくわからないが、そういうことだ。挙句には「△△(名前)氏」と呼ばれていた。

心境の変化でもあったのだろう、まぁそんな感じだった。

もちろんここにホモ的な展開はないのでそこは念押しをしておこう。

 

パイセンを尊敬したハナシ。

そんな彼ではあるが、パソコンがあまり得意ではなかった。もちろん最低限のことは出来たが、「触れていない」ようなものに対してはトコトン駄目だった。

Facebookが出始めの頃はもちろんよく分かっていなかったし、何よりエクセルがうまく使えていなかった。もちろんあまり私も得意ではないが、それ以上に彼はエクセルというものを不得手としていた。表なんかもワードで作っていた。

もちろん数式も組み込まれていないから計算は手打ちで行っていた。

 

別に彼のネガキャンをするわけではない。書きたいことはそこではないのだ。

彼の「成長性」を私は尊敬している。何事にも貪欲で、一生懸命なのが「彼」だ。

エクセルに関しては無料講習会で私以上にスキルを身に着けてきたし、Facebookなんかも日々使っていることでスキルはめちゃくちゃ上がった。また、私一人で動かしていたHTML関係が必要な職場のHP運営も、その柔軟で貪欲な姿勢であっさりと身に着けた。あまり言えないことでもあるが某フリーソフト関係(burnするやつ)も、そんじょ2日くらい説明した後にはバリバリ出来るようになっていた。

そこのあたりは私にはない姿勢なので尊敬の念を抱いている。

 

それと、彼の立ち振る舞いは見ていてとても勉強になった。

あまりここで多くは語らないが、特に女性関係は勉強になった。

 

スッキリしている部分と釈然としない何か。

文面からも伝わってくるものがあると思うが、私は彼に懐いていた。

もちろん彼は聖人君子でもないからトラブルも多々あったし、火種どころか大火事の状態でダンプカーが突っ込んでくるような大惨事もあった。

よく怒られたし、よく語らった。よく遊んだし、よく仕事をした。

僕のまだまだ短い社会人生活の中で、一番長く仕事をしたのが「彼」だった。

まだまだ盗めていない部分も多いし、まだまだ勉強すべきことも大いに残っている。でも結果として今日を以て、彼はここを去る。

もう一ヶ月もすれば私は最年少ながらに最古参という意味の分からない立場になるのだけれど、もう少し、もう少しだけ色々と盗んでおくべきだったなと思う。

 

思えば、私も彼も入社時期の都合上、ほとんどの「ここ」での仕事、モヤモヤ、トラブル、イベント、それら全てを共有してきたようなものだ。

「ここ」での半身を失った、と言っても過言ではないかもしれない。

 

大いに語らい、大いに衝突した。

そして男同士の仲だからこそ、スッキリとしたキモチで送り出せた。

 

そのはずだ。そのはずにちがいない。そうなんだろうけども。

 

どこかで釈然としない思いがある。

表現することの出来ない「何か」がある。決して寂しさとかの感傷的な部分ではない。

もしかしたら、これは「不安」なのかもしれないし、先に言ったような「もう少し学ぶべきだった」という「後悔」なのかもしれない。そこんところはいずれ、落ち着いて来る頃に分かってくるのだろう。

 

ただ、この感覚を忘れたくないから今日、ここに残しておく。

 

最後に。

私は「彼」から漫画を借りていた。丸2年近く借りていた。

最早、借りパクを疑われてもしょうがないほどの長い期間、私が彼から借りていた漫画はヤンキー漫画の金字塔とも言える「ワースト」だった。

返す前だしと思って一気読みしようと思ったら12巻までしかなかった。ビビった。

(ちくしょう!全巻セットじゃなかったのか!)

 

で、今日、普段はない「終礼」で彼は最後の別れの言葉を言った訳だが、

肝心の私は伝えず終いだったので。

 

ここに書く。そして普通に書くにはあれなので二枚の画像で済ませる。

多分に「彼」しか伝わらないだろうがそれでいい。

送る言葉というよりは私の決意表明みたいなものだ。

「頼んだよ」と任された、私の決意表明だ。

 

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花には嵐の例えもある、そこにはやはり「雨」がある。

だから、「さよなら」だけが人生なのだ。

 

 

という訳で、明日からもうちょっとだけ、本気出す。

猫が死んだハナシ。

※6月1日に亡くなりました。文面的におかしくなる部分もありますが

敢えて修正せず、そのまま残させて頂きます。



どうも私です。

端的に言うと、まだ死んでいないのですがもう来るとこまで来てしまっている。

そんな実家で飼っている猫のハナシをする。いや、させて頂きたい。

 

いつ頃の話になるだろうか、ちょうど僕が中学校に入った頃の話だ。

 その子はウチに来た。灰色にところどころ白が混じった男の子だった。捨て猫でもなければ買った猫でもない、知り合いのとこの猫の子どもだった。

「彼」の兄弟はどんどんと貰われていく中、「彼」には貰い手がいなかった。理由は彼の左目が見えなかったためだ。 おそらく子どものときに親から十分な処置を受けられなかったのだろう、彼の目には白い膜が残っていてそのせいで目がうまく見えなかったのだ。そのような幼少期を過ごしてきたからであろうか、彼は非常におとなしい猫だった。粗相をするわけでもなく、とても甘えん坊な子だった。人によく懐き、そして愛される猫で、とても賢かった。

また、僕の家には先住者がいた。メスの三毛猫だ。これは僕が小学校3年生の頃に飼い始めた猫で、こいつはとてもヤンチャだった。人に甘えるというよりは飄々とした猫で自由奔放なやつだった。当初、家庭内での猫ヒエラルキーやパワーバランスを警戒したが、しばらくする頃にはそのバランスはあっさりと崩れた。

悪く言えば、「彼」は「彼女」より人に媚びる猫だった、それゆえに家庭内でもとても愛されていた。そして月日が経つと彼はどんどん縦にも横にも大きくなった。

完全に家庭内でのパワーバランスが崩れ、先住者であった「彼女」はどんどんと隅に追いやられていった。僕は「彼女」のほうが好きだった。生まれて始めて飼った猫だったし、その飄々とした姿も、生意気な表情もとても好きだった。そして、なんだかんだメス猫たる所以か、母性なのか、「彼」の親のように彼の毛づくろいをしてあげている微笑ましい姿が好きだったのだ。

 

高校1年生の冬。彼女は死んだ。寒さのせいもあったのだろう。

その日の前の晩に普段の何倍にも騒いでいて、てっきりまた喧嘩しているものかと思っていた。朝、起きて餌を渡しにいこうとしたときには彼女は死んでいた。

普段から暖をとるために彼女たちは寄り添って寝ていた(と、いってもオス猫のほうが大きいので上に乗っかるような形になっていた)のだが、その日、「彼」は異様なほどに、まるで「死」を理解しているかのように距離をとっていた。

 

その日、僕は学校を休み、彼女を弔った。

とても辛かった。当時のガラケーで撮った写真を現像して写真立てに入れて飾った。

 

その一件があってから、「彼」は猫部屋(縁側)を嫌うようになった。

何か怖いものを感じたのだろうか、二度とその部屋で寝ることはなくなり、家の中で自由に過ごすようになった。僕はそこに何故か、「彼」の狡猾さを垣間見た気がして。

少し「彼」のことが嫌いになった。いや、少しではない、「かなり」嫌いになった。

 

それから10年近く過ぎた。「彼」も何度か大病を患ったが、それでも生きていた。

ちょうど去年の冬頃くらいからだろうか、それまで僕と「彼」は10年近く他人行儀な関係でギクシャクとしていたのだが、急に「彼」の方から懐いてきた。

僕もそれを無碍に出来る訳もなく、そこから実家に帰るたびに、これまでの月日を埋め合わせるように、穏やかな時間を過ごした。

「彼」は身体が人一倍、重たいのに寝ている僕の身体の上に乗ったりしてきた。そのまま僕の上で寝ることもあった。それくらいまでに僕と「彼」の仲は回復した。

 

僕は冗談めかして「なんだ死ぬ前みたいだな」と言ったこともあった。

あまり長生きするものだから、てっきり「彼女」の分まで生きているのかと。

そう言うと「彼」は必ず、耳を後ろに畳むような仕草をしていた。

彼はよく喋る猫であり、よく聞く猫だった。人の言葉を解していたのだろう。

 

 

そして先日、5月の始め。彼の容態は急変した。

元々、痛めていたのであろうか、老体故であろうか、彼は左足の根本を大きく腫らしていて、その足を引き摺るように歩かざるを得なくなっていた。

少しずつ、ご飯を食べる量が減り、少しずつ寝ている時間も増えた。

トイレに行くのも辛いようであった。可哀想だった。

ついにはご飯を食べなくなった。水を飲むだけになった。

目に見えて分かるほど、痩せて、声も細々しくなった。

水を飲むのも辛いから、僕らに水道まで連れて行くように頼むようになった。

周りに人が見えなくなると、か細い声で探して、呼ぶかのように訴えるようになった。

 

そして昨日くらいからついに外に出たがるようになった。

 

多分、もう「来るところまで来た」のだろう。

どんな最後を迎えるのかもわからないし、僕は死に目に間に合わないだろう。

今、実家には負のオーラが満ち溢れているし、彼がいなくなったら、あの家はとても寂しいものになってしまうだろう。とても悲しいことだから。

今更に考えれば、彼は去年の冬の時点で死期を察していたのかもしれない。

 

「最近、この子よく甘えるのよ、甘えが強いのよ」

 

最後の最後まで狡猾な猫だ。痩せた姿、その表情は頬が痩けて狐のようにさえ見えてくる。でも、それすらも今は少し寂しさを感じるし悲しい。

僕はおそらく「彼」の死に目に会えないだろう、昨晩、最後の別れを告げた。

どこまで伝わっているかは分からないが、賢い「彼」のことだ。きっと伝わっているに違いない。彼も僕が告げた後はどことなく理解したような表情に見えた。

 

僕の中でもう彼は死んだ。まだ死んでいないが、もうその「死」という運命は変わらないものだと理解してしまってるからこそ、もう言い切ろう。死んだのだ、と。

そう思っていなければ、僕も辛いし、悲しいのだ。

そう割り切らないと、僕も苦しいし、笑えないのだ。

 

一方的ではあるけれど、僕は別れを告げた。

「もう待っていなくていいからと、君の満足するまででいいからと」

「頑張れる所まで頑張ったのだから、それでいいのだ」って告げた。

 

そう割り切っているのに、そう決めたのに。

書けば書くほどに心が苦しいし、目に何かが滲む。

 

次、帰った時にはきっと君はいないのだろうけど。

そして僕の中ではもう死んだのだけれど。

それでも「彼女」のように。「彼」もまた心の中で生きるのだ。

 

これが僕の「猫が死んだハナシ。」なのである。

 

 追記。

本日6/11 AM11:00頃。

永眠したとの訃報を受けた。訃報ともに送られてきた写真には死に顔が写っており、穏やかなものだった。安らかな顔で、まるで眠るように死んだのだろう。

しかし一ヶ月の闘病生活、食事も満足に取れず、耐えに耐えかねたその姿。

苦しかったろう、辛かったろう、とても痛々しい姿に成り果てていた。

 顔だけはどこか穏やかだった。それは唯一の救いだ。

大変だったね。よくがんばったね、とてもがんばったね。

君と過ごした時間は18年くらいか、長かったはずなんだけどとても今では一瞬のようにも感じてしまう。でも多分にきっと僕たちの心の中にはずっと残り続けるものだろうから、安心して欲しい。ちょっぴり君がいなくなったことで、色々と大変なこともあるだろうし、寂しさや悲しさで家が暗くなるかもしれない。

でも、安心してほしい。きっと大丈夫だから。

大変なだったね。よくがんばったね。とてもがんばったね。

おやすみなさい。そして、ありがとう。

  

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年をとったと感じた理由がセンシティブィティだった!って話。

おはようございます。(いや、おはようございますではないか)

アローラ、どうも私です。

Facebookに書こうと思ったのですが、死ぬほどこれ長くなるなと感じたので今回はブログに書くことにしました。

 

30を前にして、最近、老いを感じてきました。

目はかすむ、身体が重い(デブなだけ)、オールがキツイ。

疲れがとれない・・・など色々とあるのですが。

こんなのはちょっと「だるいなー」「きついなー」の延長線で、何とかなる部分だと思うんですね。どちらかと言えば「感性」の部分に一番「ああ・・・」と絶望をするんですね。そのTOP3を書いてみます。

 

【第3位】怒ることを諦めている

かれこれ数年前からこの事象に陥っているのですが、「怒る」ってことに割くエネルギーを、リソースを無駄だと感じるようになってしまったんですね。

「まぁ、うん腹立つけどしょうがねぇべ」と思うことも増えてきました。

もちろんに

「ディミッツ!サノバビッチ!」くらいには思うのですが。

わりとすぐに落ち着いてしまうんですね。耐えたほうが早いし、楽だなと。

無闇に揉めるより、流されたほうが楽だなと。

自分でもどうかとは思うんですけどね。

 

まぁでも、よく言われてきた「怒られているうちが華」とは良く言ったものです。

「本当にアナタのためを思って~」みたいな理論は怒られている側からすれば、

(゚Д゚)ハァ?ってなるんですけども。

(大抵、これを説教中に挟んでくる人(特にヒステリックBBA)は、自己正当化のために言っているようなケースが散見されるから苦手だ)

 

自分がそうなってから思いましたが、大人になると怒る時間とリソースが無駄と判断する人も増えるんでしょうね、というかすごいエネルギー使うんですよね。

毎日イライラして説教してる人は凄いね、エネルギッシュだね!!!

むしろ、怒るたびにこっちからエネルギー吸い取ってるね!!とんでもねぇな!!

まぁ、このへんはこうなるまで考えたことがなかったです。

怒ってくれる人には感謝しなきゃね。(※但し、本当に人のための説教に限る)

※激情型のお叱りタイプについては、借金玉さんの話がすごく「なるほど~」と思ったので、そちらもぜひ読んで頂きたいところです。

 

【第二位】説明のつかないことへの理解が出来なくなってきた。

わりと元より、そういう嫌いがあったんですが、

 本当に最近、説明のつかないことへの理解が薄まってきました。

「なんかよくわからんけどイイね、これ」とかそういうのが減りました。

もちろん、受け取り方の部分でもそうなのですが自分からの発信においてもそうなってきています。◯◯だから△△だ、と言わないと気がすまない。

「なんでこうなるんだろう?」って部分に対してある程度の答えを求めてしまう。

納得しないと気が済まない。それもなるべく説明がつくようにしないと気がすまない。

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って感じなのだ。少なくとも、このノリではなくなってしまった。

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これは本当に良くないと思う。

上と少し重なってくるが、「なんでそんなに怒るのかがわからない」レベルの理不尽極まる八つ当たりなど喰らうと殺意すら湧く、しかし怒る気力はない。

もう帰って寝たくなる。それか今すぐ天変地異でこの世界ごと終わってくれと思う。

昨年の夏、明らかなオカルト案件に見舞われたり、知人の別人格(ガチで記憶のないことらしい)とか、色々と説明には不都合のつくような要素しかない問題に対しても「〇〇があったから~」とか「だから〇〇してみて対処する」とかそんなレベルで考えてしまうようになった。そして一番タチが悪いのが、私自身の人間性・知識・経験則も全く足りていないのにも関わらず、それなりの「答え」や「理由」を求めてしまっていることだ。頭の悪い、頭でっかちキャラみたいになっている。

素直な感性をどこかに置いてきてしまったのだ、子供の時のような感性を。

 

 

【番外編】めちゃくちゃ涙もろくなった。

そのくせ良く泣くようになった。如何にもな感動的なものでなくても泣くようになった。それこそ、君の名はの映像美でも泣いたし(しかも最序盤で)、この間は千と千尋の神隠しの冒頭シーン(引っ越しのやつ)だけで泣いた。もっと酷いのは、隣のトトロのDVDジャケットを見ただけでEDの「おかあさん」を思い出して、泣いた。

※参考画像

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涙腺というか涙のスイッチがぶっ壊れている。感性ではなく理論で生きるようになってきているという中で本当に気持ちが悪い。これだけどんどん鋭利に、敏感になってきているのだ。というわけで番外編でした。

 

そしていよいよ次は第一位です。

 

【第1位】におい(嗅覚)で思い出が出てこないことに気づいた。

そのまんまである。匂いを嗅いで、思い出を引き出すことが出来なくなったのだ。

これに気付いた時、本当に絶望した。

アカデミックに言えば、「プルースト現象」が減ってきているのである。

というか本当にない、かれこれ数年ないのだ。

プルースト現象などについては、以下の記事も読んでみて頂きたい。

aromacandletime.jp

matome.naver.jp

 

数年ないと書いたが、何も全くないわけではないのだ。

あるとしてもロクでもないものしかないのも悲しい理由のひとつなのだ。

例えば、

食えないキュウリの漬物を食わされて泣いて吐いた、あの夏の日とか。

食べれない、ちらし寿司を延々と扇ぎ続けた、あの春の日とか。

そんなロクでもないものしかないのだ。

 

匂いで直接、思い出すことは凄く鮮明でくっきりしている。

例えば、雨が降る前の特有のあのニオイも、よく部活の練習のときに嗅いでいたニオイなのに、いまいち結びついてこない。

 それが出来ない、このモヤモヤ。

ああもうこれは年をとったってことなんだろうな、そうだ、そうに違いない。

 

 

というわけで以上僕が年をとったなと感じるのは体力などの肉体的な部分よりこういう精神的な、感覚的な部分だ。 少しでもシンパシーを感じてくれる人がいたら嬉しい。

 

ああぁ、感性を高めたい。

 

 

大学1年生にカレーの作り方を書かせた話。

アローラ!どうも私です。

今日は某所での書き込みを見て大学時代のエピソードを思い出したので書いていきますね。自分語り系の話なので「うっぜ!」ってなる人は読まなくていいっす!

タイトルの意味がわからないって?うん、おいおい説明していきますね!

※ところどころにフェイクなど入っているし、一部記憶が曖昧なのでフィクションということでお読み下さい。

 

唐突な自分語り

私は大学の時、学園祭の実行委員会に4年間所属した。

本来ならば3年次に引退するパターンがセオリーなのだが、ちょうどキャンパス移転の関係もあって残ったというのもある。4年(4回生)時にキャンパス移転ということで勝手も分からない、色々とややこしいといった部分もあって、なかなかに最後の年=キャンパス移転初年の実行委員会は非常に慌ただしいものになっていた。

移転前は勝手がわかってたこと、また泊まり込み活動も可能ということで少数精鋭でも何とかなっていたのだが、どうにも新キャンパスは勝手が違っていた。

故に「この1年は人海戦術になるな」と思った私は他サークルが動くよりも先に、人を集める必要があった。入学式よりも前に行われる説明会で先手(チラシ撒き)を打ち、入学式の日、それ以降にも

「おーこないだ会ったよね^^!改めて入学おめでとう~」

と、めっちゃいい人を気取って勧誘しまくった。

結果的に1年生だけで40人近くの入部者、大して先輩は2年~4年まで併せて10名程度というとてもアンバランスな実行委員会が生まれた。

 

集めたからには育てねばならぬ

これが普通のサークルであればいい、しかしここは実行委員会だ。

性質が大きく異なるし、例年の流れ的にも他サークルを優先して辞めていく子がいるのも目に見えている。全員離脱というケースはないとしても、ある程度は使えるメンバーを絞って懇意にする(囲い込みする)必要もあった。

概ね私の所属していた学園祭の実行委員会の部署は5つに別れていた。

 

運営:当日の運営。備品管理や検食、わりかしドカタ作業

企画:当日の企画を担当。企画の作成やステージ周りが担当の頭脳&ドカタ作業

美術:内装やパンフレット制作担当。デザイン系の部署。

広報:発信・広告系の担当。あまり忙しいように見られない不遇の部署。

会計:お金の管理。実は期末や決算以外は忙しくない部署。

 

ちなみに私は1年からぶっ通しで企画部出身だった。

それこそ1年の頃なんかはお化け屋敷の担当ということでガチで曰く付きの廃墟で一人作業をするというトンデモエピソードがあるのだが、それはまた後日にでも書こう。

 

ともあれ、早急に入部希望者の部署配置などをしなければいけなかった。

こんな学生サークルの延長のようなものでも人には適材適所がある。

実行委員長だった私はやんわりと、各部署の部長に

「本当に欲しい子には逆スカウトしていいし、囲い込んでいいよ。じゃないと後で人が足りない!って叫びたくなるような地獄を見るよ」みたいなことを伝えた。

 

僕の経験に裏打ちされた見通しでは、

だいたい4月の入部者が来なくなったり、辞めたりするのは5月の頃。

ゴールデンウィーク明けが多い。後は夏休みなどの長期休暇の後だ。

ここを過ぎれば、本当に切迫な事情がない子以外は残るし、逆にそれ以降に入ってくる子はわりと最後までいてくれる。

ともあれ、残った子を立派な戦士にしなくてはならない。それくらいの認識が上級生には広がっていた。それぞれの部署で希望の部署がある子、そして逆スカウト候補の子などのそれぞれに仕事の中で経験を積ませたりしていた。

(今考えるとブラック企業のようなものである)

 

美術部は休み時間に落書きを通して画力やセンスを測っていたようだったし、運営は「みんな家族だよ!」と言わんばかりの結束を作るためのファミリアな活動(ご飯会・ゲームをする会・テント早建て競争とか)をしていた。

会計は広告集金関係のために表の作成などをしていたし、電話掛けの練習なんかも一生懸命やっていた。

えーと・・・広報部は外向けが良い子(可愛い子)にナンパしていたので論外だ。

問題は僕の古巣ともいえる企画部だ。部長も「どうすりゃいいんだ」と頭を悩ませていた。実際問題、企画部の仕事というのは難しい。

「企画コンペやノリで企画書作ってこいとでも言いましょうかね。」

という意見も出たが、さすがにそれはハード過ぎるし、それで仕事の面白さを伝えるとしても、しんどさが先に出てしまうのではないかと僕は諭した。

しかし、研修はおろかスキル判定なんかもこれでは出来ない。このままでは大惨事になるだろうなと私も危機感を感じてきた。何もやらなければ、来なくなるのは目に見えている。ゴールデンウィークも目前に迫っていた。非常に不味い状況だった。

 

企画部長が何もしていなかったわけではない。昼食を一緒にとったり、会話をしたり、メールを送ってみたり、必死にコミュニケーションでカバーしていた。

 

「どうすればいいですかね?」

元はといえば、その子(部長)とて僕が手塩にかけて育てた後輩だ。しかしその子のスタイルと僕のスタイルは違う。さらに企画部は聞こえの良さから人気部署でもある。だから人数も多かった。同じ手は通用しない。

 

「あー、うん。じゃ僕でやるよ、気にせんでええ。」

特に方法も思いつかないまま、後輩の心配を払拭するためにその場は流した。

そして帰り道に必死に考えた末、目に止まったのは駅チカの90番カレーだった。

そこで閃いたのは「カレーを作り方を書け」という一見すれば無茶苦茶にも見える研修だった。

 

いまからカレーの作り方をかいてもらいます。

翌日、僕はゴミのようなシートを1枚作った。

カレーのつくりかた。と表題に書いて、下に「いるもの」「つくりかた」「かかるお金」「かかる時間」と雑多に書いただけのアホのようなシートだ。

 

そして、企画部を希望&逆スカウト候補の子に配った。

もちろん、どよめきがおこった。そりゃそうだ。4年生の仮にも実行委員長の私が「カレーのつくりかたを書け」だなんてアホな話なのだから。

 

「いいかい、うん、そのまんま。カレーのつくりかたを今日は書いてもらおうと思う。というかカレー作ったことある?キャンプとか宿泊学習でやったよね?」

 

一同は素直に「ええ、まあ、ありますけど・・・」というような顔をしていた。

なんでこんなことを?という疑問のほうが大きそうだった。

 

「とにかく書いて欲しい。誰に食べさせるか、どんなカレーにするか、どんな味にするか、そこは自由だ。わかりやすく、見やすく、簡潔に書いて欲しい。あとどんなものが必要になるか、どれくらい時間とお金がかかるか。あとはそうだね、食った後のことまで考えて書いてくれたら、めっちゃ助かるかな。あ、そうだ、仮に僕に食わせるとしてどれくらいの金払わせたいかも書いてくれると嬉しいかな!」

 

おそらく、こんな感じのことを言ったはずだ。

そして幾つか質問が返ってきた。

 

「デザートはいりますか?」→好きにしていいよ!

「絵を書いてもいいですか?」→わかりやすくなるなら大歓迎だよ!

「委員長向けに野菜抜きがいいですか?」→別に僕向けじゃなくていいよ!

「値段は正確にしないと駄目ですか?」→正解はないけど説得力はほしいかな。

「時間も正確にしないと駄目ですか?」→まぁおかしくなけりゃいいよ!

「料理したことないです」→わかる範囲で書いて、説得力があればそれでいい!

 

 

 

もはやバナナはおやつ入りますか、に答える先生の気分だった。

会場は和やかに盛り上がっていた。

「あー食材を仕入れて~とかコメづくりするから1年くれ!ってのはナシねw」

 

冗談を交えながらヒントを小出しにしていった。

 

この時点で部長は僕が何をしたいのか分かっていたようだが、多分、1年生の子にはいなかったはずだ。

 

 

制限時間は15分、その中で出来る限り書かせた。

回収するときもなんでコンナコトを・・・という顔をしている子もいた。

 

結局僕の狙いは何だったのか。

困惑する1年生の子を前にして。

 

ぶっちゃけカレーじゃなくても良かった。カレーが一番、メジャーだと思ったから僕はカレーにしたのだと。

「にーんじん、たまねぎ、じゃがいも~」って歌もある、みんなわかるでしょ、と。


実際のところ、僕はカレーをつくる、ということを通して連想力や発想力、ターゲット設定、そのへんも含めて「説得力のある説明書」を作って欲しかったのだ。

 

つまり企画書を書け、ということだったのだ。

 

 金額や時間なんかに関しても分からないなりに仮説を立てて、筋道を通して説明してくれれば良かったし、何かをやるには何が必要か、何を並行してやったら上手く片付くか、そのへんのイメージをすることでビジョンを掴んで欲しかったのだ。

 

というような説明をした。

極論的な展開を耳にしたわりには、みんな納得をしていた。

 

「いいかい、企画をするってことはその企画を楽しむ人もいるし、企画をやる人もいる。分担したほうがいい仕事もある。今日は、カレーを作れって書かせたけど、一人で作ることをイメージしたでしょう。でも実際はさ。片付け含めて、キャンプの時とか分担したでしょう?この紙を他の人に見せれば手伝ってもらえるかもしれない、もっと楽になるし、説明する手間も省ける。そして説得力もある、こういうのを作って、実際にカレーを食べさせて満足してもらうのが企画作りみたいなもんなんだ。」

 

立場もあってのことだろう、わりと感動を受けたような顔をしていた。

そのせいで僕も気分的に宗教家の独擅場のような感覚だった。

これでは不味いのだ。何せ僕は部署の長ではない。

 

「そのへんが凄いのが、この企画部長なんだ。企画作りって言ったけど、実際のとこ社会に出てこのへんすごく大事なスキルになると思うよ、だから、もし君たちも企画部に入って仕事するときにはそのへんを見て、盗むといいよ。オモテに出てこない部分だから、分かりづらいけど。お母さんの家事術を見て学ぶようなもんさw」

 

なるほど!というような顔をする1年生。正直なところこれにも困った。

実際僕の中でこれは全てノリで思いついたことにそれなりの説得力をもたせてるだけだったからだ。

 

みんなが帰った後に企画部長の子から御礼を言われた。

ただ、僕も御礼を言われると困るのだ。何せ僕はそもそも嘘をついている。

感謝されるのも苦しくなって、僕は種明かしをした。

 

「ごめん、いやまぁ、こんなのもっともらしく言っただけ。実際これでみんなのスキルが図れるわけじゃないよ?帰り道でカレー屋みて思いついただけで裏打ちはない。ただ、こう説明したら納得させられるかな、って思って。それで話しただけだから、本当に効果があるかは分かんない。でもこうやって、それっぽく成り立たせるために説明して、実行するのも「企画」なんじゃない?いつか、同じ手を使った時にでもちゃんと話してね、誤魔化し通すのも企画力だよって。」

 

めちゃくちゃ人でなしのような顔で見られたものの、それなりのフォロー(アイスを奢った気がする)を入れてその場は何とか乗り切った。

 

これでタイトルのとおり、大学1年生にカレーの作り方を書かせた話は終わりだ。

 

印象に残っているシート

最後に僕の中で、印象に残ったシートを思い出せる限りで書く。

印象深かったのは2つ。

一つは、親子3世帯で住んでいる自分の家のカレーだから、やわらかく煮込んで、ご飯も柔らかめに炊いて、味付けも甘めにするという内容のものだった。これは女の子が書いたもので、かわいいイラストも添えられていた。もちろん価格や時間の設定なども忠実だった。多分に普段から実家で家事の手伝いをしているのだろう。

実際、仕事の方も非常に生真面目で、退会後もしっかりと資格勉強や進学をこなしていたようだ。素晴らしい子だった。

 

そして、もうひとつはもっと印象的だった。

料理をしたことがない、と言った男の子のものだった。

驚くなかれ、かかる時間の設定が10分だったのだ。

必要なものには食器、電子レンジにプラス2つだけだった。

 

そう、レトルトという禁じ手を書いてきたのだ。

しかし、僕は悪い意味で印象的だったというわけではない。

個人的には一番、「こいつは大物になるな」と思ったのだ。

 

シートは余白が目立った。当たり前である。過程など殆ど必要ないのだから。

 

ただ、そこに添えられていた言葉が印象的だったのだ。

 

「自分は料理が出来ないので、レトルトより美味しく作れる自信もないし、確実な選択としてこの方法にしました。もし、実際に作るのならレシピを見て、出来る人と一緒に作ります。」というような内容だった。

そして値段も面白かった、400円。この値段設定の理由は直接彼に聞いたところ、

ロッジや観光地でもない状況でこれ以上払わせるのは忍びないという理由だった。

 

個人的に何も言い返せないな、と思った。

彼はただの諦めで書いたのでないとすれば、自分の取れる最善手を示してきたのだ。さらにはこれでダメなら専任者と知識をつけて行う、ということも示してきた。身の丈にあった行動なのだ。それなりに筋が通っているし、僕の感覚を「まぁいいか、これも方法だよな」と誤魔化し通したのだ。正直、やられてしまった。

事実、彼は本当に仕事が出来る子だった。

それはもう、僕の何倍にも出来る子だった。

 

というわけで、カレーの作り方を書かせるのは本当に面白かった。

実際に似たようなことをされているケースもネットで見る限り散見された。

(※当時の僕は勿論、知らず知らずで思いつきでやらせたことに説得力を持たせただけであったけれども。)

 

www.cheersmywife.com

atumaru-start.com

www.insource.co.jp

 

つまり仕事が出来る人は美味しいカレーが作れるのではないかしら。

ってかカレー好きは仕事が出来る人なのではないか(超飛躍な暴論)

 

あれ・・・

もしかして・・・

 

阿久根の名店とKagoshimaniaXが奇跡のコラボ!5月3日は「北薩カレーフェス」にカレーの雨がふるぞ! - KagoshimaniaX

 



納得したあたりで今日はこのへんで。ではではまたね!

私、仕事をやめます!と思った瞬間が叙情的だったから語るよってハナシ。

アローラ!アローラ!今日は自分語りで御座います。

タイトルの通りに「私、仕事をやめます!」と思った瞬間について語ります。と言っても、今の仕事の話ではなく前職をやめるキッカケのお話です。

 

前の前の仕事のお話

この話をする前にそもそも前の前の仕事のことから話さねばならない。

私は大学卒業後、就職が決まらなかった。いや厳密に言えば、内定を貰って「いざ!入社!」というときの辞令交付のときに揉めて、ぎりぎりなタイミングで内定を蹴りとばしてしまったから決まらなかったのだ。

 

内定もないまま卒業したため、仕方なしに私は繋ぎの仕事を探すことになった。

諸々とあった後、結果的に私は自分の家から5分とかからない超近距離な店舗で、販売員をやることになった。

業務自体は学生時代に派遣でやっていた内容とそう変わりがないものだったので、全く苦労もなかったし、むしろ楽しかった。

契約が取れるから~といった部分よりはむしろ環境が良かったから楽しかったのだろう。非常にアットホームな雰囲気で仕事が終わってからのプライベートでも良く遊んでいた。今思い出しても良い職場環境だったと思う。

 

しかし、僕の中ではどうしても「定職に就かねば」という焦りがあった。

実際問題、わりとレールに沿った人生を送ってきた人間だったから、定職に就けてないというのは僕の矮小なプライドを踏みにじるには十分な問題だったのだ。

 

別に待遇や環境に不満はなかった。ただ、本当に只の「正社員」の肩書欲しさのためだった。働いて1年近くなった頃、僕は無理やりに仕事を決めて、その職場を去った。

 

 

前の仕事のお話

そんな理由で、僕は次の仕事に就いた。

その仕事は「電話帳の営業」というものだった。ご存知の方もいるだろう。

多分に漏れず、私は定職欲しさに地獄への門を開けてしまったのである。

 

もちろん当時の自分はそんな身構えなどはなく、楽観的だった。

 

ねんがんの 広告営業 だ! わーい! わーい!

 

本当にこんなノリだった。

 

業務初日、OJTと言えば聞こえの良い、先輩社員への同行だった。

ただただ暇な日だった。先輩社員には営業のテクニックも糞もなかった。

ルート営業なのと業態特有の「作業感」が先輩からも伝わってきた。

「あーマズったな、これは」と内心思った。

別段に、希望を抱いていた訳でもなかったが、そんな日々が一週間は続いた。

 

潰れそうな、週に1人くるかこないかの小さな昔ながらの理容店の店員に頭をぺこぺこと下げて、無理くりに諦め半ばにハンコを押させた光景を見ている時にはだいぶ心が傷んだ。そもそも電話帳に載せているようなところは昔ながらのお店ばっかりである。

もう昔ほどの繁盛もない、寂れた商店街などはハイエナスポットとでも言うのだろうか、とにかく潰しまわっていた。これにも心が傷んだ。

年間5,000円とかその程度である、それでも仕方なしに載せるその姿は本当に申し訳なさを感じた。この人達は5,000円の粗利を生むのにどれほど苦労しているのだろう、そんなことを考えるほどには悲しくなった。

 

そして、研修期間(3日間だった)が終わって独り立ち。

僕はどちらかと言えば、ひとりひとりと親身に話すようにした。

これも一つの術ではあった。他の人が事務的にこなすのならば、それだけ親身になれば少しは好感の一つも貰えるだろうと。しかし、事務的になるのは当然とも言える、何故なら同じお店を来年担当出来ることなんてないからだ。それは事務的にもなるだろう、何せ件数至上主義でその経緯は関係ない、それがその世界のルールだからだ。

しかし、私はそれが嫌だった。接客業あがりだったというのもある、本当に親身になった。営業車を見るなり、「帰れ!」と罵声を浴びせられることもあった。

可能な限り、理由を聞いたし誠意を尽くした。

契約を貰えば、即退散!な連中(先輩社員の方々)になるのは嫌だった。

実際問題、とても可愛がってもらえたし契約もそれなりに取れた。

 

幾つかは引き継ぎ案件で他の人に振られることもあった。この業務はローテーションでエリア変更がある。僕を気に入ってくれた人が、僕でないと契約しないと言い張って、配置を戻されることもあった。

 

そして、およそ2週間目くらいのこと。

僕はよくわからない感覚に陥って営業車で泣いた。

別に失敗続きだったわけでもない。本当によく分からなかった。

メンヘラになったのか?とさえ思った。

「島はドル箱だ」「病院はA面カタい」

こんなことを平然と言う人に呆れてしまったのだからなのか、ただ心が疲れてしまったからなのかは分からない。とにかく凄く悲しくなったのだ。

 

ちょうど奇しくもその日は後輩の大学の卒業式でもあった。

そして、ふと窓の外を見やると桜と野花が咲き誇っていた。

 

「きれいだなぁ」と思った瞬間に、気づいてしまったのだ。

 

「このままでは綺麗なものを綺麗と思うことのない人間になる」

「このままではふとした機微に気付けない人間になる」

 

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翌日、僕は仕事をやめた。

 

今の仕事の話

僕の今の仕事の原点は、その僅か3週間ほどの糞のような日々がきっかけだ。

田舎、過疎化、寂れてしまった商店において「本当に力になるには?」と考えるようになっていたのだ。あの、先輩社員が1時間近くの押し問答の末に契約させた、あの理容店のおばあちゃんや、寂れた商店街で菓子屋を営むおじさんの顔、とても親身になって飲み物までくれた金物屋のオジサン。彼らの顔と、あの野花が僕の原点だ。

 

僕は地域を活性化させるだなんて大それたことは出来ないし、それを指導していけるような立場でもない。経験も知識も足りていない。

それでも、自分に何か出来ないか。を模索し続けることが出来るのが今の仕事だ。

天職ではないが、主義には反していない。

決して満足のいく仕事ぶりでもないし、成果も出せていない。

暮らしも裕福でもないし、むしろ苦しい。

大変なことばかりだ。それでも僕はたまにこの風景とあの「顔」を思い出す。

 

だからこそ、頑張らねば、何かやらねばと思うのだ。

 

というわけで僕は、花を見て仕事をやめた。というハナシでした。

 

ちゃんちゃん。

いちき串木野市の時報についてまとめてみたハナシ

アローラ!アローラ!


ちなみに、いちき串木野市でよく使われているワードである「黎明」って言葉はイタリア語とかフランス語で「アウローラ」っていうらしいよ!

※ちなみに冒頭のアローラは某ポケット怪獣(ゲーム)のアローラ地方での挨拶です。


さて!さて!久しぶりに街のことについて話すよ!!

僕はもともと、鹿児島市生まれ、いづろ育ちのシティ・ボーイだから(?)
防災無線という文化に縁が無かったんですよ。

 

だから「5時のチャイム」とかを聞くと夏休みの楽しかったあの日を思い出す的なことを言われても全くピンとこなかったんですね。

(その分、市電や市バスの広告関係に懐かしさを覚えます)

 

で、こっちに来て衝撃を感じたんですね。

「すげぇ、時報が鳴るんだ・・・」って。

この防災無線はお知らせはもちろんのこと、時報も鳴る。

もちろん、防災情報も鳴る。台風の日はこれのおかげで避難場所を把握出来たし、地震速報が鳴り響いた夜はちょっと怖かった。 

 

というわけで、時報の音楽を聞いていく日々をかれこれ3年近く過ごしているんですが、どうにも12時のチャイムと15時のチャイムの曲が何なのかが分からなかった。というか、分からなくてモヤモヤしていた。

 

そして何とか12時のチャイムは直接、職場の防災無線にSound Houndというアプリを近づけて解析するという荒業で判明したんですが、どうにも15時のチャイムが分からない。周りに聞いても「分からない」ってパターンだった。

 

※ちなみにSound Houndはめちゃくちゃ便利なアプリなのでオススメです。

鼻歌とかからでも曲を解析してくれます。日々のモヤモヤが減ります。

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そして、ひょんなことから15時のチャイムの正体が判明した。

どうやら「市民歌」らしいのだ。ジョッキーのガッキーこと地域おこし協力隊の板垣氏は先日に「市民歌」を歌う機会があったようで、そこで気付いたそうな・・・。

(申し訳ないんだけど、ぼく、歌ったことなかったよ・・・)

いちき串木野市/市民歌・市民音頭

 

というわけで備忘録も兼ねて、皆さんにも知っていただきましょう。

 

いちき串木野市時報チャイム(防災無線)はこれだ!!

ちなみに時報が流れるタイミングは市のHPによると
7時・10時(屋外のみ)・正午・15時(屋外のみ)・17時・18時(夏休み期間)

ということのようだ。

よっしゃやったるで!!!

 

7時:牧場の朝(文部省唱歌

www.youtube.com

これは学校で習ったことがある人もいると思う。

ちなみに小学校の頃、僕が最後のパートは低音を歌わされていた記憶がある。

職場に緊急で寝泊まりした日にはコレが目覚まし時計のように鳴り響いてビビりました。どことなく少年自然の家的なものを感じます。

 

 

10時:マリリス(唱歌)

 

 屋外のみ!というレア枠です!!

僕も休みの日に外に出ていると、どこからともなく聞こえている記憶があります。

元々はNHKの「みんなのうた」で流れた曲のようです。この曲自体はフランス国王ルイ13世の作った「アマリリス」という楽曲をもとに作られた曲なんだそうで。
そういえば小学校時代にリコーダーで吹いたなぁ・・・。

ちなみにこんな記事も見つけました。面白いのでどうぞ!

senderofview.com

 

12時:L'amour est bleu (ラムール・エ・ブル)※(邦題:恋はみずいろ)

www.youtube.com

これ! 曲名までは知らなかった人も多いんじゃないですか?
恋愛系の曲らしいです。まさかここでも「i」がいっぱいいちき串木野市的な要素を感じられるとは思いませんでした!!(※私見&こじつけです)

有名な曲らしいのですが、僕はここの町に来てから初めて知りました。

 

15時:いちき串木野市民歌

https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/documents/insto.mp3

↑クリックで流れます。

最初のイントロで「ああああああ!」ってなった方は

「このチャイムね、市民歌なんだよ!知ってた?」って自慢してください。

もっと言えば、この案は職員提案制度によるものなんだそうです。

 

 

17時:夕焼け小焼け(童謡)

www.youtube.com

THE 王道!!! ですよね!!

僕もこれを聞いて「あ、5時だから帰らなきゃ!」みたいな少年時代を過ごしたかった・・・。ある種の浪漫があると思います。

 

18時:7つの子(童謡) ※記憶が曖昧なため未確定

多分に記憶に間違い無ければ確かこれだったような気がする・・・。
夏休み限定!!!きっとこれは小学校の頃に聞いていたら・・・
ああ・・・羨ましい!!もし地元でこの曲が流れていた人は夏休み期間は本市でこのチャイムを聞いて、夏の思い出に浸ってみるのもいいと思う!!!

 

ちなみに・・・

いちき串木野市防災無線(正式には防災行政無線)では定時放送というのが行われている。市のイベント情報や各種お知らせが流れるので非常に便利だ。また土日には当番医なんかの情報も流してくれて非常に便利。

そして防災無線機器自体には時計機能もついていて、実はちゃっかりとFMラジオなんかも聞けるようである。故障の際などには交換にも応じてくれるようである。

 

至れり尽くせりかよ!!すげぇ!!

 

という訳で、いちき串木野市に住んでる人は防災行政無線をうまいこと使いこなしてステキなライフハックをオススメするゾ!!

 

PS.そういえば新しいアイコンを雑コラで作りました。

往来でPCやっててドヤってる私です。

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 今日もお読みいただきありがとうございました!
ではでは~またね!!

 

小学校時代の思い出の8割に火が絡んでいるハナシ。

お題「わたしの黒歴史」

何をどうやっても私の人生は黒歴史の上に黒歴史を塗りつぶすドス黒い人生だ。

まぁ今日はタイトルにもあるように小学校時代の黒歴史について書いていく。
気になった方にはここあたりの記事もオススメです

(最後にもリンク置くのでご安心下さいね) 

 

bu-bu-karon.hatenablog.com

 

bu-bu-karon.hatenablog.com

 はじめに。

この後のハナシにはいくつかフィクションがあります。というか全部フィクションだと思って下さい。これは他の僕の思い出話も同様に。あくまでもフィクションです。

そういうことでお読み下さい。

 

ファイアーボールを放ったお話。

ちょうど小学校2年生の頃。ちょうど僕の通っていた小学校は創立120周年を迎えた。そこで学校の催しで「チャレンジ the 120(ひゃくにじゅう)」なるものが行われることになった。何をするのも割りと自由と銘打たれたそのイベント。

他の子たちは「縄跳び120回!」とか「リフティング120回!」とか色々と言っていたのだが、当時の僕はどうしようもないクズ悪童だったので、何故かハイパーヨーヨーで120回なにかをやる」という無茶苦茶な案を押し通したのである。

当時はめちゃくちゃハイパーヨーヨーが流行っていたのだ。(参考画像)

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で、この悪童チーム、当時の我々のバイブルでもあるコロコロコミックに連載されていた超速スピナーあたりに影響されたのであろう、「みんなでループtheループを120回やる!!」ということに決まった。

別にそれほどハイパーヨーヨーに拘る必要はなかったのだが、単純に学校に遊び道具を持ち込むということがしたかったのが主たる原因であろう。

次の日から悪童たちは練習=学校公認という名目で昼休みはそれぞれハイパーヨーヨーに興じていた。

ちなみに僕が使っていたのは「ファイアーボール」というモノだった。同年代の皆さんならご存知であろう、これはあまりループには向かないものだった。どちらかといえばスリーパー(長時間、戻すことなく待機させること)やストリングスプレイに向くモノだった。正直なところ、かなり地獄のような辛さであった。

その日の練習も過酷を極めていた。あまりにうまくいかないことにイライラしていた。
そんな最中、数名の男の子(たぶん一年生?)がウザ絡みをしてきたのだ。

 

「ねーねーみしてみしてー!!」

「ぼく、めっちゃうまいんだよー」

「かしてかしてー!!」

 

わかった、わかったと適当な相槌を打ちながら、練習を続ける僕達。しかしハイテンション無防備キッズはお構いなしに近付いてくる。結果、次の瞬間には、僕の手に握っていたファイアーボールはそのキッズに直撃していました。

その後はね、ええ。もちろん叱られましたとも。

先生から「じゃぁ先生はファイアーげんこつするぞ」とかいう謎体罰を受け、お説教は終了しました。大きな怪我がなく良かったのですがその後、「ループtheループ」がいけなかったんだという謎解釈を先生が下し、結局僕らは「ブランコ」という技で120回を目指すことになったのでした。(参考画像)

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トイレットペーパーがよく燃え過ぎたハナシ

あれは小学校5年生の頃だ。学校ではなぜか空前絶後のライターブームが起きていた。イマイチ流行った理由は良くわからないが、多分に事故的にアルコールランプで教科書を燃やしてしまったアホな友達がきっかけだったと思う。とにかく僕らはライターを使って「なんでも燃やしてみよう!」と科学の実験気分で楽しんでいた。

さながら魔法使いの気分になっていた。とにかくなんでも燃やしていた。ペットボトルはすごく臭い。雑誌は分厚いと一気に燃えない。葉っぱは枯れ葉じゃないと燃えにくい。竹は燃やしすぎると危ない。色々と経験を積んでいた。

その日は雨だった。雨の日は遊べない。これは僕達の常識だった。

そんな暇な昼休み。隠れんぼの最中に僕は見つけてしまったのである。

そこは封鎖された屋上へとつながる階段の踊り場を仕切って作られた倉庫だった。子供には到底忍び込めないような所であったが、階段の際の手すりをうまく登れば何とか潜り込める造りだった。

その倉庫には色々と先生方が押収した(?)古いコロコロコミックなどが無造作に置かれていた。その日のうちに僕は周りの悪友にそれを伝え、その日からそこは僕達の秘密基地になった。

 

その日も雨だった。

僕たちはその日もそれぞれ持ち寄った逸品を炙っていた。

もちろん危ないものばかりではない。給食の余りのご飯を焼くやつもいたし、海苔を炙って食べるやつもいた。そして実験もした。その日はトイレットペーパーを燃やすことに決めていた。ご存知のかたも多いだろうが、トイレットペーパーはめちゃくちゃよく燃える。そして燃え方が他の紙と比べても激しい。しかもトイレットペーパーは燃えるとほとんど塵が残らない。素晴らしい素材だったのだ。

 

僕たちは楽しすぎた。

 

まるごと1ロール燃やしたのが仇となった。ボヤが発生し、床は焦げたしモクモクと黒煙があがった。もちろん、それに気付かないアホはいない。

見事に先生にバレて、ぶん殴られた。

「なんでそんなことをした!何が楽しかった!!」

一人(僕)は答えた。

「トイレットペーパーはよく燃えてすごかった」

しこたま怒られたのだけど、多分人生で初めてだった。

人が呆れ返る顔を見たのは。

 

同級生の親が燃やされたハナシ

あまりこれ自身については言及したくない。ただ、言えることは、あれは小学校6年の修学旅行の朝、友達の○親が▲親を●して火をつけたという噂が広まった。

ただ、それだけだ。本当のことなのかどうかもよくわからない。ただとても記憶に残っている。もしかしたら知っている人もいるかもしれない。

 

 

以上こんな感じでした。

また、思い出したらまた書くと思います。